会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削した。天和3年(1683)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米が困難になったためである。
その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31里10町52間の街道である。
旧街道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を上り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる。
険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる。
~下郷町案内板より~
実は、この会津中街道の経路にある横林はこのホームページ発信地の接骨木の北西隣りなのです。
奥州駒返坂の石碑は右地図の★印にあります。いよいよ標高約1,460mの大峠を越えて板室温泉に抜ける。益々険しい道のりになるためここで馬(駒)
を返す地点がこの奥州駒返坂の石碑。今は使われなくなった旧道も獣道のように木漏れ日の中に薄っすら名残を残し、会津藩の行列が腰を下ろして休憩し
ている様子が目に浮かぶ。
会津中街道のこのルートは福島県下郷町から那須連山を越えて栃木県に抜けるルートだが、現代に至っても車が通れる道がなく登山道のまま。
現代のこのルートに近い道は国道289号で下郷町から白河に抜ける道かな。
「栃木、福島の戊辰戦争史跡」 によれば慶応 4年(1868年)、
8月23日西軍、三斗小屋宿に滞陣していた会津藩隊を襲撃、8月24日三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領、8月26日
館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。駒返坂では約200人の会津藩兵が迎え撃ったが敗退したとのこと。
奥州駒返坂の石碑に刻まれている年号は元禄8年(1695年)。戊辰戦争で戦いが繰り広げられたのは慶応 4年(1868年)。石碑建立から約170年後のこと。
その後、明治から現代にかけ忘れ去られた。今は渓流釣りに行って不意に出くわせる歴史のロマン。
【会津中街道の参考】会津中街道倶楽部
新道に下郷町が設置した案内板がある。
新道から石碑に向かう入り口は山の斜面に沿った林の中の階段です。
階段を上ると20m程度で奥州駒返坂の石碑が見えてくる。
奥州駒返坂の石碑のアップがこれ。元禄8年奥州駒返坂が読める。
旧道跡が獣道のように残る。こちらが会津方面。
こちらも獣道のように残る大峠を越えて江戸に向かう。
所在地 | 〒329-2807 栃木県那須塩原市接骨木 |
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